心学講舎そのものは 手島堵庵(1718-1786)が石田梅岩の死から21年後 家業を息子の和庵に譲り1765年(明和2) 京の富小路三条下がる、の自宅に、道友との心の研鑽「見性開悟」の場として「五楽舎」の看板を掲げ 「本心(私案なしの心)」を柱に心学活動に専心したことに始まります。
続いて手島堵庵が1773年(安永2)五条東洞院東入る、の地に開講したのが当「修正舎」の始まりであります。堵庵は更に1779年(安永8)今出川千本東入る、の地に「時習舎」を、1782年(天明2)河原町三条の地に「明倫舎」を開き、この三舎を全国展開の教化活動の中心として位置づけ、この三舎で多くの道義心を自覚した京の商人・町人を教師として育て教勢拡大の基礎を作りました。1779年(安永8)には 江戸からの要請により、中澤道二を派遣しました。