石門心学とは・・・丹波の国(現在の京都府亀岡市)の農家の次男として生まれ京の商家で奉公した、石田梅岩が八代将軍吉宗の治世の1729年(享保4年)京・車屋町御池上がる東側の町家で「講席」を開いたことに始まる、あるべき人の道を説いた「教学」です。 当時の世相は商業の発展と共に急速に貨幣経済への進展が進む中で商人(町人)の富裕化が進みましたが、そのバブル景気が崩壊した元禄年間以降は封建体制(士農工商)にも陰りが見えはじめ、農民はおろか四民の長たる武士階層の生活困窮も進み、都市では牢人(無職の武士)と農村からの農民の流入で溢れていました。その一方で富裕なるを誇る商人たちの行動やその「商人道徳」に対して大変厳しい批判が噴出した時代でした。
かかる社会状況の中で商家奉公の傍ら「神・儒・仏」の道を独学・開悟した石田梅岩はその商いの体験から得た「信念」を社会に広く語りかけました。その説く所は・・・宇宙の根源たる「道(理)」は万人に均しく天与されており、その天与されたものを「性」と言い、「性」は心の根本で「性」に従い活動して止まぬ、素直な心「本心」に従うのが商人の道、人の道である。それを知るには「心」を尽くして「性」を知らねばならない、と町衆に向かって日常生活の卑近な例を挙げてその「尽心知性」を易しく諭すが如く話して聞かせるものでした。その中身は「正直・倹約・勤勉」を基盤にするものでした。その一方で社会に向かっても強く「商人の利は武士の俸禄と同じである」、「道に従って商いしてたとえ富が山の如くに至るも、それを欲心からとは言えない」と訴え・・・その判り易さから近畿一円に広まりました。
梅岩の死の当時1744年(延亨1)、まだ若年の弟子であった手島堵庵は暫く家業の商いに専心する中で思索・研鑽を深め、梅岩の「尽心知性」の教えを更に判り易く発展させ・・・人の心の中には「私案する心(作為する心)」という怪物があり、怪物は「素直・善なる本心」の姿を覆い隠し心を邪悪の危うきに導く。依って人のあるべき道は「私案なしの本心」に従うことである・・・と説きその判り易さから畿内から更に江戸へ、全国へと教えは広まりました。江戸に派遣された堵庵の弟子、中澤道二は参前舎を開き寛政の改革時の老中、松平定信の信頼が得られたことから多くの大名・旗本の共感も得られ、広く関東に大きな地盤を築きました。