雲
石田梅岩の教えを京都の地で学ぼう!
一般社団法人心学修正舎
石田梅岩

ご挨拶

理事長 小谷達雄
理事長 小谷達雄

 日本にはたくさんの素晴らしい伝統があります。四季おりおりの伝統行事、豊かな食文化、伝統的な職人技術など。今後ますます国際化していく中で、日本の伝統の素晴らしさを改めて知ることが大切ではないでしょうか。速いスピードで大きく変化していく現代社会の中でもう一度、伝統的な日本の精神を再評価し、日々の行動規範の一つとすることも大変重要なことです。

 江戸時代中期に京都の一商人、石田梅岩があるべき人の道、事業経営の心を説いた「教学」の石門心学が「現代にも通用する活きた学問」であると考え、私ども心学修正舎は活動を続けております。その心学とは、日本人の良き伝統であり、行動規範となっている「正直・倹約・勤勉」を基盤とするものです。

 石田梅岩はその教えを分け隔てなく町民、婦女子に説き教えました。私ども心学修正舎では学びの場である会輔(相集う勉強会)を通して、石門心学の教えを学び、活かし、自らの品性の向上のために、そして次世代へその教えを繋いで行きたいと願っています。

 皆様のご参加をお待ちしております。

平成29年4月    一般社団法人 心学修正舎

            理事長 小 谷 達 雄

((株)イセトー 代表取締役会長)

話者(長野享司)の言葉

話者 長野享司
話者 長野享司

2020年1月 話者の言葉

平素は心学普及のためにご理解ご支援を賜り、厚く御礼申し上げます。「話者の言葉」を執筆されている後藤理事から「あなたも書きなさい」と言われてすでに数年が経過しました。今回初めて掲載させていただきます。

 まず自己紹介ですが、私は京都で生まれ(1953生)京都で育ち京都の学校を卒業して京都の呉服問屋に勤めました。京都しか知らない井の中の蛙です。入社した会社は享保10年創業、300年近い歴史を有する老舗と呼ばれる店でした。あえて「店(みせ)」と表記したのも理由があります。名前は株式会社ですが、実態は昔にタイムスリップしたようなお店だったからです。そこで約30年勤め、その間いろいろと悩むことが続き、いつの間にか石門心学に関わるようになりました。退職後は自宅で論語塾を開き、また修正舎の会輔において話者を務めております。どうぞよろしくお願いします。

 石田梅岩先生は呉服屋に勤めながら、いつも書物を離さなかったちょっと変わった商売人だったようです。私自身も元来読書好きで、出張の時などは2~3冊の本を抱えて出かけたものでした。梅岩先生が開講されたのが享保14年車屋町御池上ル、私が勤めていた店の創業は享保10年高倉三条下ル、ともに京都の呉服屋、そんな共通点が重なり梅岩先生が他人のような気がしなくなってきました。しかしそのころの私の心学の理解はまだまだ浅いものでした。やがて京都の基幹産業と言われた繊維業界も落日の憂き目にあい、次々と老舗が倒産していきました。心学を真剣に学べば学ぶほど、教えと違うことをしていることに後になって気が付きました。

 現在、企業経営や営業に苦心されている方も多いと思いますが、心学にはその答えが書いてあります。しかも300年も前に、この京都の足元に立派な教えがあるのです。世間の人は忘れているのか、気が付かないのか、もったいないことだと思います。難しい経営理論や自己啓発より「石門心学」を学ぶことが幸せをつかむ最短距離です。また、経営者や営業マンだけにある教えではなく、すべての人の幸せな人生に寄与できる素晴らしい教えです。一人でも多くの方が石門心学の扉を開けてくださることを願っています。

 「道は爾(ちか)きにあり。而(しか)るに人はこれを遠きに求む。
 事は易(やす)きにあり、而るに人はこれを難きに求む。」 (孟子離婁上)

 (真理は身近な所にある、にもかかわらず人は遠いところへ求めていく、方法は簡単なものである、にもかかわらず人は困難なことを選んでいる)

 

(話者・長野享司)

 近代経済の父と言われる、18世紀イギリスの経済学者・道徳家のアダム・スミスは…経済活動を支配しているのは 市場にはたらく「見えざる手」である…と言っていましたが スミスの原文には無いなのに 多くの人は需要・供給の間に働く「神の…」と言う意味と都合よく理解して「神の見えざる手」と考えた様です。しかし近年の世界各国の状況は 今や「見えざる手」の意味は…正に絶対的個人の“自我”から生ずる利便性追求の過度なデジタル・科学的知性の執念に結び付いた「強欲な、利己心」であり、世界を席巻する「近代科学・資本主義」として強者の論理の本であること…は明らかであると言えましょう。

 また日本でも…梅岩の商人道を「資本主義の精神」に通じていると評論する人もおられますが 立つ位置、視点が基本的に異なり 私どもはそうは考えません。日本古来の伝統精神の好ましい本質を継承する「石田梅岩」は…万事に(天から賦与されて自心に具わる慈悲・仁・誠などの)共生的個人・無私・利他のアナログ・情と感性(人間性)の心の「神の見えざる心」に順うべし…と考えます。

 また人間共同体・社会の好ましさは 人間の「知性」のみにある訳ではなく 本質的に人間個々の心・価値観は「知性(知識・智慧)」と「情・感性(人間らしさ)」の両面のバランスで成り立っているのに 近年のデジタル・科学知に偏重した道徳・倫理感のない“巨大プラットフォーマ―”の出現と強者の論理の近代科学資本主義は 利便性は増しても 世界の貧富の格差を益々拡大させ、非人道的性向を強めると言えましょう。

 20年程前にアメリカの宗教社会学者・R・ベラーや、イギリスの哲学者・バートランド・ラッセルは 利己主義に傾斜した自国の社会を反省し、西洋も東洋の叡智に学び21世紀は「西洋と東洋の異心の融合」の必要を述べていました。東西に限らず“人間は皆同じ”ですから人間が絶対的個人の自我から生まれる「利己心」と共生的個人に立脚する「利他心」の、已むに已まれぬ“相反する”二心があります。石門心学には「西洋人は脳で考え 東洋人は方寸で考える」と言う言葉がありますが、その二心の用い方の違いが 東西の「良心」、“見えざる手”の違いを生んでいると言えましょうか。

 今 世界の「牽制力」となれるのは 東洋と日本伝統の心の本質にしかありません。日本伝統の精神の本質は…人間の良心も 企業の良心も、政治の良心も、「知性」だけにあるのではなく、究極は「情・感性の人間らしさ」にある…とする所を学ぶには 神儒仏・三教会通の梅岩の心は 格好の教えです。ご興味ある方々のご来場をお待ちしております。

 コロナの政治に携わる政治家・官僚の姿勢は 当初から真の“国民”の立場に立っていないと痛切に思う。日本の“政治”に携わる者の伝統の心は「十七条の憲法」以来 孔孟の儒の心を受けて“為政者・権力者は 民を支配するが 民から逆に養われる(「孟子」)、と言う支配者と被支配者の間の“垂直の平等”の考え方にあるが 終に 其の心も失われた、と言えます。養われるとは 農閑期に公共の労働力を提供して貰うの意で 現代で言えば共同体企業として 実際に貢献するのは民であり、支配者は民の納める税で養われる、と言う意であります。

 梅岩の商家経営・ガバナンスの心も、その国家統治の心と同じで 「権力者・トップの“人間らしさ”徳治が 共同体統治には支配的であるとし、その“人間らしさ・情”とは 民や手代・丁稚を「吾が子、家族と思う」所にあるとします。理由は簡単で人間には皆 強い危い利己心と 微かなる利他心の相反する二心があり、利己心は利他心より強い故に、若し権力者自らが 吾が子を思う親心を忘れ、利己心・自我に執着したら、(国家も企業も家庭も)共同体の調和は成り立たない、民は国から離れていく、と言う考え方にあり 特に危急の事態に際しては(下々の民や子の心は 千路に乱れる故に)権力者・トップの人間性と経験と見識の判断・決断、リーダーシップが重要と言う意味になります。

 こう考えれば 今回の政治の権力者の安倍・麻生両氏と後ろで支えるお歴々の“生きたおカネ”を出し渋る、生活弱者の立場から離れた使命感の欠如は 「政治」全体の質が 地に落ちたと思います。此のままでは 太平洋戦争敗戦の様な“どん底”に落ちねば 政治の流れは変えられないと言うのでは 国民の我々も余りにも情けないと思います。

 武力権力者不在の千年の都で 石田梅岩に親しまれてきた皆様は…梅岩の「先も立ち 吾も立つことを 思うなり」の“用心と安心”の心が 強権の権力者と“対等に”応じる道であり、危急の変に備える(柔よく剛を制す、変に応ずる)常の自在の心である…ことをご存知ですから びくともされないでしょうが、 新しい、若い世代の方々に 広く社会に 伝えて頂きたいと思っています。

 メデイアでは「関電」経営者と高浜原電の地元・助役との金銭授受が話題となっている。贈られた金銭を全員で管理・把握して、返す努力をした気配はあるが、「自尊心」を傷つけられても何故返せなかったのか。この問題の底には 過去のリクルート事件や 日銀総裁の某ファンドでの短期での自己資金運用の利益享受、ロッキード事件、更に近くは、安倍首相夫人の「籠池」問題、安倍首相の「加計」問題、等などと共通する、強者の権力者と弱者の間の「倫理」問題が潜んでいる。(現象だけ見て批判・評論するのは簡単だが それが真実の全てではない。)

 梅岩はこの類の問題に対する「道」を述べているが これを実践するには更に 心の奥に乗り超えねばならぬ厳しい壁が潜んでいることを示唆している。

 人間には本質的に“人間の心は(棒)磁石で” …強い「利己・私心(+)」と微かなる「利他・誠(-)」の相反する二心があり…この二心の葛藤を如何に克服するかは、個人個人に課せられている、と過去の先賢は言っているのである。

 梅岩には“微かなる”利他・至誠の心が 強者・権力者に対する“柔らかな”力になる智慧がある。それを関西の歴史風土で生きる「関電」の経営者は知っていたと思うが 最初に断固、実践出来なかったのは 関西で育った者として 真に残念である。

先日 麻生大臣が 額と眉にしわを寄せ、口を歪めてこれから「二千万円の貯蓄が必要」と言ったが 梅岩の至言に「先も立ち 我も立つことを思うなり」という、家庭経営や企業経営、国家の政治に通じる心である。ビジネス世界で言えば「経営者も良心を以て、自分の名利を捨てて経営するから 君たち社員も良心を以て夫々の使命を果たして呉れ!」という、日本古来伝統の心の本質の心である。

 麻生大臣の言葉は…政府として安易に年金だけで 老後の生活を考えられては困る、と言っている。そして大企業と富裕者を優遇し、自らの大臣・議員と官僚の行動に伝統的に「税金の効果的な配分と節約」の意識はなく、経済の活性化は「消費の促進」にあるとしつつ、保険料を上げ、消費税を上げ、年金受給者をただ働きの富める者とすら考えているらしい。江戸時代の政治が衰退した過程が思い浮かぶ。

 政治家も従来の大企業、富裕者を通じる経済運営では 社会の富は 政治家と企業経営者層の個人に集まるばかりで 多くの若い国民、弱い中小商店主、老齢年金だけでは生活出来ない国民の生活の「不安」は増大する。経営者も社員を「可愛い吾が子」と思わず、「医は仁術」の医者も医院の「算術」経営に精をだし、社会はデジタル・AIを弄び、日本伝統のアナログ・人間らしさを喪失しつつある。

 政治家・官僚の意識を転換して貰いたいと思うが 皆さん如何でしょうか。

 先日、児童虐待に政治家のコメントがないのは残念、と申し上げたばかりですが、麻生副総理の「子供を産もうとしない女性に問題がある」と地元福岡で堂々と発言して批難を受けておられる。現政権は本来の「政治の心」を忘れている、女性が子供を生む気持になるのは「政治」を信頼して「社会」の近未来に安心感を持てた時だ、と思うからであるのに、児童相談所も教育委員会も学校の教師も、自分の子供じゃないからと思う故に、後手後手となっている、と申し上げたが、国民の心情を理解しない「政治」のトップだから、文部省も警察も「人間としての感情」もなく事務的に仕事しているとしか思えない。野党もメデイアも 国民を巻き込む努力をしたらどうでしょうか?

 世の中は悪い方向へ向かっていると思われてならない。日本伝統の政治の心は、仁徳天皇の「民の竈を思いやる心」や聖徳太子の政治に携わる者の心得である「17条の憲法」に(それを継承する石田梅巌の心にも)ある「国民 (社員)を思う心」にあるはずだが、今の政治風土は「国民」や弱者から目が離れているのではないだろうか。

 幼児虐待・弱い女性の殺人事件が目立つが、政治家のコメントもなく、警察・教育委員会などの組織も後手後手となっている。また多くのスタートアップ企業が生まれる中で、政治は相変わらず大企業経由の経済政策を変え用とせず、富裕者と大企業の課税に甘く、文句を言わぬ多数派の「老人と国民」からの消費税で補おう、としている。国会議員や官僚組織の政治の自らの費用の節減努力の気配もなく、大企業のガバナンスも不祥事も多く、官僚の仕事もミスだらけで、政治に携わる者の使命感すら感じられない。政治運営の指針となる統計指標も 政治家の意図的な作意とすら感じられる。

 誰も怒りを覚えないのだろうか。政治家も半数位にして、使命感のある人に変わってもらい、官僚も東大のエリート中心を止めて 広く私学や民間の人材に門戸を広げる必要があると思うのですが。

 地検特捜部の逮捕の手際の良さに驚いたが、ゴーン会長の行為について驚きはない。日本の「政・官」行政全体の金銭感覚を正す為に辣腕を発揮して貰いたいと期待しているが、本件は…東西異文化・異心の交錯するグローバル企業・日産の中で、西洋資本主義の経営術の本質が顕れた典型であると言える。

 勤労労働者を搾取・差別視するのは「西洋近代科学・資本主義」の本質であり、ゴーン氏側近に外国人を入れ、同じ経営陣に居る日本人が「異見」を述べれば、直ぐに排除・疎外され自らの人生が路頭に迷うことは必至であるから、本音・良心の意見は述べられない。司法取引したと言うが、日本の風土に馴染めないし、本人も後味悪さは拭えないと思う。

 ゴーン氏には共同体・企業の永続の為の内部留保を厚くする視点や、企業は社会的公器との思いもなく、まさに経営・権力者の名利の欲のみである。「孔孟の儒」の本質継承する石田梅岩の心や、梅岩に通じる「老舗の心」には馴染まないものと言える。

 しかし近年の日本の経営者にも見られる現象で、他人事ではない。目前の利益確保に苦しむ経営者は多く、現場管理に目が届かぬ不祥事や、短期離職率の増加や、ノイローゼや自殺者が減らないことなど、ガバナンスは不安だらけである。かっては大王製紙のオーナー経営者・御曹司の会社資金100億円流用の「カジノ」賭博事件もあったし、オーナーでなくとも権力者の立場に立ったサラリーマン経営者でも「名利の誘惑」は避け難い。最近、日本の「モノ作り」の競争力の基盤となった、中小企業の事業承継の難しさが話題になっているが、その解決の叡智は、西洋の知・「法」だけでは難しく、梅岩の「心」の中にある、と考えますが如何でしょうか。

 安倍首相夫妻の「籠池」「加計」問題が野党の追及にも拘らず 永い間迷走している。続いてレスリング・オリンピック四連覇のスターに対する 栄コーチのセクハラ問題があり、更にアメリカンフットボール常勝軍団の日大・内田監督の反則行為指示問題が 社会をにぎわしているがメデイア上の議論は皆 道の「根本」を外して堂々巡りをしている。

 この三人に共通する点は 皆「権力者」の地位にありながら指導者として「人の道に外れている」ことを忘れた姿であり、事態に対して素直に良心的(正直)に説明もしていないし、お詫びの心がないから全くお詫びにもなっていない。これ等は「十七条の憲法」、梅岩の「正直」、明治天皇の「五箇条の御誓文」等に一貫する共同体の為政者(トップ・指導者)の心得である日本古来伝統の倫理観に反しても、ご本人たちは、国民・下を軽視し傲岸不遜そのものである。また彼等権力者を取り巻く官僚トップの姿も牽制力とならず真に卑しく、またスポーツ協会団体・大学幹部も皆同じ穴のむじなと言えそうである。

 しかし国民は皆 古来日本伝統の道の「根本」を外れていると直感しているが 迷走しても社会の大勢に影響力が及ばないのは 哀しいかな、国民にもお上に盲従する感のある、日本の歴史の底流にある文化的宿痾(長患いの病気・悪しき陋習)と言えるかもしれない。

 日本伝統の理想精神は…人間の集合体・共同体の好ましい始まりは 家庭に在っては「親が」、企業に在っては「経営トップが」、国家に在っては「為政者(首相・議員・官僚幹部)が」、夫々が「好ましい道の姿」を示すことから、共同体・社会全体が良い循環になる…と考えて来た。「国家」の最下層・被支配者たる国民も、「企業」では社長や管理職であり、又「家」では一家の「主」であり、人間この世に生を受けて 一生を下層の被支配者で終える人はいないのです。(古来日本伝統の考え方には 上下の支配・被支配関係にも理想として「垂直の平等」があるとしますが 改善・進歩がないのは) 日本人は西洋人に比べて 上も下も「個人の意識・自覚」が未成熟である、とも言え、西洋資本主義の行き過ぎた所を真似し、日本伝統の良い所を忘れている社会の現状はよく考えねばならない所ではないでしょうか。

 「籠池」問題で相変わらず「政治」は騒がしいが 20年前「心学開講270年記念シンポジウム」にお招きした、アメリカの宗教社会学者で「石田梅岩」研究者のR・ベラー教授は日本の個人主義の未成熟を指摘して…日本には「社会を変えられない」と言う不安が有るかも知れない…と言って帰国されましたが、「籠池・加計」の問題の「政・官・メデイア」の議論を見ると 同感と思わざるを得ません。日本の「政・官」組織には 「良心」に依る「牽制力」が働いていないし、権力者・トップに必要な、「良心」や「公平無私」の自覚もない。 古来日本伝統の政治に携わる者の「心得」は 聖徳太子の「十七条の憲法」にあり 明治維新でも「五箇条の御誓文」に受け継がれ、…「政・官」の公平無私・心の正しきことが柱になっていますが、其れを可能にするのは 「一に権力者トップの姿勢にある」…とします。しかし現状の政治状況は…明治維新以降の伊藤・井上・山縣の「長州」中心の専横政治はそれらを全く無視して 終には太平洋戦争・敗戦へと導き なおも今日まで続く「その悪弊の遺産」の姿の現れである、と考えます。

 「加計」は安倍首相ご自身の、「籠池」は首相夫人の、為政者・権力者の立場にある者の「あるべき道」に反する行為であり、梅岩は「権力者に邪念を以て働きかける者に3割、悪しき働きかけを受けた権力者に7割、の責任がある(権力者が公平公正でなければ 社会は治まらない)」と述べている。「長州」の小さな選挙区で選ばれた権力者に「日本」の命運を安心して任せられないと思うのですが、野党も小党乱立して大同団結出来ないし、国民の「政治」参画意識を高める努力工夫もしない。そう考えると(今の「政治システム」では 社会を変えられない故に) 「国の代表者」は相応しい「徳知ある人」を 国民が直接選べるようにしないと いつまでも日本は変われない、と言うことになるのでしょうか。 梅岩の心にある、日本伝統の心と「孔孟の儒」の本質を学びに 皆様のお越しをお待ちしております。

 皆様 明けましておめでとうございます。本年も宜しくお引き立て賜りたくお願い申し上げます。故・柴田 実先生ほか多くの京都の先達の方々の後を ご縁あって1773年手島堵庵が開講した歴史ある(昭和30年代から休眠していた)「心学修正舎」の活動を再開してから9年目の春を迎えました。その後、話者は「儒者」を以て任じた「石田梅岩の正直の心」の意味を忠実にお話することに心掛け…正直とは 古来神道の風土の上に「孔孟の儒」の本質・「垂直と水平の平等」と、梅岩自身の「発明した智慧」当世風に言えば「義務感ではお客様のご満足は絶対に得られない」「お客様の秘かな貴方へのご好意を読み取れるか」にあること…等を 体験的な視点から皆様にお話して参りました。

 しかし近年の グローバリズム・イノベーション・ダイバーシテイ 等に代表される、世界の著しい変化の中に在って 古来伝統の心の喪失と社会の富の格差拡大は進み、社会は益々即効性のある「自利を求める知恵」を求めていますが 人間の本来の心には、「自利と利便性」を求める知性・デジタルの利己的な側面だけでなく 「人間らしさ」・利他的なアナログの感性・情の側面もありますから 人工知能・ロボット化の進化と共に 「人間らしさ」の側面を捨てれば人間とは言えません。利便性・即効性と共に「本」である「道」・人間性を守る視点が大事だと言えます。

 また今年は明治150年に当たりますが 明治維新後の政治には 日本伝統の心を大きく歪めて、太平洋戦争・敗戦へと導いた遠因があり、今日にもその宿痾が遺っていると考えますが「梅岩の心」にはその歪み・宿痾を正す所があり、世界平和の「牽制力」と期待される所があると確信しております。好道・好学の同士の皆様のお越しをお待ち申し上げます。

 大学病院の日本の権威の一つと思われる「東大病院」に初めて二週続けて通いました。全て予約診療で4000人、3622人の予約だったそうですから 私の様に良い人ばかりに会えたわけではないと思いますが、毎月京都で定宿にしているビジネスホテルや 平素利用する駅員、郵便局、スーパーなどで感じたことのない「もてなし」の心、ホスピタリテイ―(Hospitable)、古来言われる「医は仁術」の思いを、久しぶりに感じました。病院の直ぐ外のタクシー乗り場に立つ人、病院の受付開始前の窓口の様子、コンシュルジュの応対、エレベーターの前で案内する女性、採血センター、診断して呉れた若い先生、等々淡々とした中に皆さんの応接に 新鮮な印象を感じました。

 病院に限らず事業には 効率的に合理的に処理せねばならぬ側面と 人間的な社会貢献の側面の仕事と両方ありますが、東大病院に一日中いて 悩み不安と痛みに苦しむ4000人もの患者さんの対応に毎日、膨大なビックデータを扱う情報システムを駆使するだけでなく、個人一人一人が人間らしさの発揮に 懸命に取り組んでいるとの印象を受けました。

 病院幹部の心は判りませんが 社会に接する第一線は事業の使命感を果たすべく実践しているとも言え、梅岩の心情「真の商人は 先も立ち(社会的使命感の側面と) 我も立つ(合理的効率的側面)ことを思うなり」の両方を睨む心を感じた次第です。最新先端医療の砦が 邪道の「算術・詐術・技術ならぬ忍術」を駆使する病院を淘汰して呉れることを願っています。梅岩の心には 孔孟の儒の本質や 神儒仏、三教融和の日本古来の伝統が忠実に継承されています。皆様のお越しをお待ち申し上げます。

 日馬富士の殴打事件が 貴乃花親方と最強の外国人横綱・白鴎の「相撲道」の違いに論点が移っている。簡単に言えば「名利」に拘ることを嫌う日本古来伝統の考え方と 白鴎の「名利」に拘る「勝たねば一銭のおカネにもならぬ」という正に異文化・異心との違いであり、相撲協会の諸先輩たちが、横綱になるまでに肝心の伝統の相撲道を 若い白鴎に教育しなかったのだろうかとも思う。社会の真の好角家たちは 白鴎の横綱らしくない風情には皆、気付いていたのに相撲協会の幹部たちは 真の伝統の相撲道を自覚していなかったのであろう、又球の花の行動も解せないが 若手の理事では率直な議論が出来ぬ 悪しき陋習が相撲協会にあるのかもしれない。

 しかし社会には日本伝統の心で奮闘される多くの中小企業の方々が居られる中で 中小企業を支配する大企業や政治家は グローバル・多様化・イノベーションの荒波に晒されて、既に日産自動車も武田薬品も手早く外国人をトップに据えているし、政治・経済のトップも皆、伝統の心を棄てて、金銭至上の「西洋資本主義」の流儀に身を任せて、外国人の役員や外国人の雇用を促進し、異文化・異心と日本人社員との調和の難しさに思いが至っていない現実がある。

 私達も異文化・異心を学ぶ必要もあるが 肝心の伝統の心・文化も守りたい。いろんな形で身近に来られる異文化・異心の外国人が 真に日本文化を理解し溶け込むような対策を 政治にも考えて貰いたいものである。

 先日、大変嬉しいことがありました。愚生は…近年 社会は悪くなっている、安部首相ご夫妻の国のトップとして全く不公正な「籠池・加計」事件に始まり 国家議員諸兄諸姉の相次ぐ不道徳な事件や、続いた大企業の不正直な事件もあり 市井にも凶悪な殺人事件もあり、最近の横綱・日馬富士の暴行事件等から 日本社会の底に流れる陰湿なものがあり、日本社会の実情・底辺では不安が広がっている…と感じておりました。しかし日本の庶民層の良き伝統である おもてなしの心・「誠実・正直」という健全さが遺っていることも実感しました。

 其れは…半世紀ほど前に渡米した方が 久しぶりに来日された時 現金12万6千円の入った「財布」を落して そのまま帰国されたのだそうです。しかし先日、幸いにも「財布」に入っていた知人の名刺を頼りに 12万6千円が入った「財布」が戻ってきたと言うのです。私の知人でもあるアメリカの方も「日本は 素晴らしい」と、大変喜んでおられたと言う話を聞いて「日本も捨てたものじゃない」と思う反面で 複雑な思いも感じた次第です。明治初めアメリカから高給を以て招聘した学者が…「日本人は素晴らしい、メイドに依頼して洗濯に出した衣服のポケットのおカネが戻ってきた」と言っていましたが、「国」の信用を支える多くの支柱である「力を労する」庶民が頑張っている間に 「心を労する」社会の為政者・リーダーも「心を正して」貰いたいと思うのですが皆様如何でしょうか。

 決して面白いとは言えませんが「日本古来伝統の心」を共に学んでみたい、と言う志のお方のご来場をお待ちしております。事前のご連絡も不要、参加費用も無料です、皆様のお越しをお待ちしております。詳しくはホームページをご覧ください。

 安倍新内閣がスタートしましたが、石田梅岩の心に「絶対的な確信」を持つ私は伝統を尊重する立場として基本的に「保守」ですが、出直し内閣にも全く新鮮味を感じないし、逆に日本社会には数多の「悪しき陋習・残渣」の現れと感じました。その「悪しき陋習」からの脱却として「世襲」尊重主義から「志ある人物」本位への革新的方針転換を「保守政治」に望みます。その世襲批判に加えて言えば、明治以来の「東京大学」重用の官僚採用も 今や時代遅れで「悪しき陋習」と考えます。人材の質の重視とすれば、安倍チルドレン代議士たちの言動は論外で議員の質を高めるには「議員定数の半減」なども世論で提案しなければなりません。

 (1)安倍首相を含めると内閣、20名中14人が「世襲による」出自であると言う。幕末に咸臨丸で訪米した「福沢諭吉」はアメリカで「今 初代大統領のワシントンの子孫は 何をしておられるか」と尋ねたら「誰一人知らなかった」と述べている。中津藩と言う九州の小藩の出の「福沢諭吉」は「大藩」の薩長の下級武士が活躍する中で 「世襲」封建制度に「悪しき陋習」を見て、薩長の体制に人生を託せず、維新後は行政府で働かず、政治の外から「近代社会」への改革を目指したのでしょう。

 (2)日本の政治は 明治維新以後初めの「薩長」主体も 薩摩・大久保利通亡き後 は、太平洋戦争「敗戦」まで、日本の政治は「長州」の地縁の独壇場の歴史である、いや森友・加計学園への安倍首相夫妻の関わりを見ると、今日も安倍首相の心中にはその「残渣」、甘え、自覚の欠如があると思われます。

 (3)石田梅岩の「商家経営」の心にも(未成熟な封建社会の中で)「世襲」を親心としてもっともと承知をしていても 子供に対しての嫌としての「厳しさ」がありました。時代も多様な社会になった今、社会のリーダーであるべき政治に「世襲」が 蔓延っていることは 政治を「私物化」していることに他なりません。

 いつの世も権力者は 理想を「歪めて」政治に用いるものです。世界共通ですが、今日ある「悪しき陋習」も「太平洋戦争・敗戦」の遠因も、明治維新後の「政治」の歴史にあると思います。最終的には政治の私物化を止めるのは、社会の「牽制力」としての、「メデイア」や我々「国民」の意志行動の強さ如何、にあるとも言えます。これも日本の「悪しき陋習」として「心の近代化」として、我々も変心・改革せねばならぬと考えます。

 「梅岩の心」には 「武士道」にもない、日本伝統の「良心」があり、グローバル世界が必要とする視点があります。気楽・気軽にお立ち寄りください。お待ち申し上げます。

 暑い夏祭りの季節になりました。世界は資本主義国も社会主義国も「自国主義」に傾き 世界は渾沌としてきました。日本の政治の世界も次元の低い「熱戦」が繰り広げられているが、政治を「私化」していたことは「明々白々」である。首相夫人のご活躍の「森友」事件、首相ご贔屓の女性防衛大臣の「日報隠し」事件、安倍チルドレンの豊田議員の秘書暴言・暴行事件、また安倍首相の親しいご友人の「加計」学園支援疑惑事件と続き、終に東京都議会選挙の「大敗」と続いた。 しかし多くの国民は 先刻、期待した「民主党」政権に裏切られて新たなな期待できる「革新政党」もなく、恐らく「都民ファースト」に投票した国民も、安倍チルドレンと同じ道をたどると感じている、正に「亡国の気配」とも言えましょうか。

 この「亡国の気配」の原因は、一に政治に携わる*リーダー達の「**精神性、人間性の欠如」に失望したのである。*日本には古来、政治に携わる者の心得として、「私を滅して公平に政治をすれば民は素直に其れに従う」と言う所(滅私奉公・「書経」)にあるのです。安倍首相夫妻や 政治家は*「見識の欠如」と、政治を正に「私」化している*。

 姑息な手を考えずに「自民党」でも「民進党」でも良いから、日本伝統精神に立ち返り、政治姿勢を正すべきである。日本伝統の精神は、仁徳天皇の「民の竈は賑わいにけり」から、聖徳太子の*政治家・官僚の仕事の心得である*「十七条の憲法」、更に歴史は飛んで、明治天皇の「五箇条の御誓文」や「教育勅語」の心にあるが、明治以後の「長州藩」主体の権力者たち「 政・官」はその精神の「本質」を歪めて用いたが為に、太平洋戦争の原爆投下に由る惨めな敗戦に導いた。今の政治の姿は、その歪んだ積り積もった「政治の病根」を抱える「自民党」の体質の現れで、「貪欲・強欲の資本主義」に対して 同じ「強欲・貪欲」主義で対抗しようとしている。

 石田梅岩を始めとする、日本伝統の精神には 今世界が求める要素・本質が秘められおり、「日本伝統の精神」が世界政治の「牽制力」として提示できる「リーダー」の出現に期待したいのだが。皆さん、発言する国民となるよう切磋琢磨しようではありませんか。

 この度の大阪「森友学園」への国有地売却疑惑について、明治維新直後の二つの「汚職」を思い出しました。安倍首相も相手方の魂胆を軽く見て、応対していたのでしょうが、トップを支える「官僚組織」も税金を扱う、金銭倫理は全くお粗末・無責任と言えましょう。

 率直に言って「森友学園」の教育には、メデイアで知る限りでは「神道」を基盤にする「日本会議」の一員が経営し、幼稚園の教育現場の報道を見て、儒の古典「大学」を用いてもいる様で、不純なものを感じます。明治維新で当時の薩長政府は、古来伝統の、神儒仏融合の文化を「儒と仏」の抹殺をはかり「国家神道化」したことは、日本の永き伝統文化を大きく歪め、その後の太平洋戦争・敗戦に導いた原因と考えますが、森友学園理事長の傲慢な気配には、その歪みが現れている、と思います。現代の政治・官僚の世界にも、江戸時代以来の「武士道」から受け継いだ「根本的な金銭的倫理感のなさ、無自覚さ」が病根・宿痾として遺っているとの思いがします。

 新渡戸稲造も著書「武士道」で、内村鑑三は著書「代表的日本人」で、武士の俸禄は「生命の対価」としつつも、利・金銭を論じることは「卑しい」、武士道の定めは「金銭への執着は諸悪の根源である」と述べています。その故に私は「吉田松陰」は立派な志士であったが、維新の実務を担当した、長州の弟子たちは伊藤も井上も山形も「二流の人材」と評価しますが、その根拠とする、明治維新直後の二つの政府要人の「大汚職事件」をご紹介します。

 一つは長州・井上薫大蔵大臣の秋田「尾去沢銅山」事件で、長州人の「岡田平蔵」名義で正当な持ち主から強権で不当な没収をして、訴えにより「江藤新平」司法大臣から追及されて、引責辞任した事件です。其の後、「江藤新平」は西郷隆盛の下野に同調して政府を去りますが、長州の恨みを買って、その後の佐賀の乱の首謀者として、正当な裁判もなしに即日、斬首されましたが、反して「井上薫」は同じ長州閥の「伊藤博文」の要請で政界に復帰します。もう一つはこれも長州閥・陸軍大臣の山県有朋の長州人「山城屋和助」への不相応な高額資金の貸付の回収不能となった事件です。その二人はその後も、隠然たる勢力を保ち、政治的寿命を全うしましたが、今回の「森友学園」について、行政府には地検特捜部や会計検査院、税務署、警察と色々ありますが、日本の伝統、現実社会とはこんなものだったのか、と寂しくなりました。皆様如何でしょうか。

 行事のご案内のように、2月25日亀岡・京都学園大学で「石田梅岩フォーラム」が行われます。玉置半兵衛氏の「茄子の花」(親の訓えと茄子の花は千に一つの無駄もない)というお話です。何かと不安感の増す現代で「日本人の心」をさりげなく、味わいのある話し方をされる方は、玉置さん以外ではお見かけしません。聴講料無料で、予約申込不要です、是非皆さんお出かけしてみませんか。

 茄子の花は花を着けると「必ず実が成る」所から、親の教え、言葉には絶対に間違いがない、実がある、役に立つ、という江戸時代から庶民の間に伝わる「ことわざ」です。日本では儒教でも仏教でも、親の子供に対する愛情は「至上の徳性」と考える所から、その親の「至上の徳性」 にこたえる、子供の親に対する「孝行の徳」をも至上の徳性とします。故に一見、親の言葉が間違っている様でも、何か理由が隠されているのだから、まず素直に耳を傾けなさい、それが親孝行である、という意味があります。

 不思議なもので玉置さんのお話には「文字」で学ぶことでは味わえない、しみじみとした お話が聞けると思います。

 明けましておめでとう御座います。本年も宜しくお願い申し上げます。江戸中期に始まる、梅岩心学の月例勉強会・「会輔」を再開してから8年目の春を迎えることが出来ました。為政者の心である「武士道」と共に、日本人・庶民の心を代表する「石田梅岩の心」は日本伝統文化の双璧を為すものであり、皆様の知的好奇心に喜んで頂けるよう、精進したいと思います。

 昨年末のアメリカの予期せぬ「トランプ旋風」について思い起こしますのは、18年前、京都で開催した「心学開講270年・記念シンポジウム」で講演された「R・ベラー」氏は、既にアメリカ社会は急進的・利己的個人主義の傾向が著しく、長い間、欧米資本主義として「富と力の蓄積も社会全体に良い影響を及ぼす」と信じてきたが、間違いだった、良い社会には繋がりそうもない、日本も同じ間違いを犯す危険がある、と反省の弁を述べられた、ことです。

 アメリカに限らず「日本」も伝統思想の理想的な政治が、行われて来た訳ではなく、明治維新以後の「近代化の歪み」が残っておりますが、「梅岩の心」には日本伝統精神があり、アメリカや日本の歪みを直す視点、要素が潜んでいると信じております。

 ご興味のある方は是非、遠慮なくお立ち寄り下さい。お待ち申し上げます。

 12月19日産経新聞に石原慎太郎氏の言葉「男の最高の美徳は、自己犠牲である」と三島由紀夫と語り合ったことと、広島カープの「黒田」が大リーグの高額契約を捨てて、広島に帰ったことを賛美している。男の美徳として確かに日本人の心の奥には「死に場所を求める」ところがあるが、それは常に先に「為政者の徳、下々を思う心があって、その上の信に応える下の行動が、家族愛をも一時忘れさせる」所が人間の心にあるからである。我々庶民にとっての「一所懸命」とは「命を懸ける」こと、家庭を第二にする「我を忘れる」であり「滅私奉公の心」との「自負」で人生を送ってきた人は多い。

 しかしその前提には、常に為政者・トップの心・姿勢が「公を以て私を滅せば 民其れまことに懐かん(書経)」にあったからである。「滅私奉公」の心は下々の好ましい心ではなく、本来は「上なる者」のあるべき心であると私は思っている。ここに日本伝統精神の神髄があると考えるが、昨今の政治家・官僚・大企業の企業経営者など社会共同体のリーダー達のその「心の喪失」はまことに嘆かわしい。聡明なリーダー達は、西洋近代民主・資本主義は「非人間性」促進の側面があることを承知しながら、無視している。我々庶民は本来、働くことを好む本性があることを信じて、率先垂範の徳治で指導力を発揮して欲しいものである。

 どんな小さな共同体である「家庭」でも父親(両親)に徳なく身勝手なれば、家は治らない、子供は道を外れること明白であるのに。

 先般のイギリスのEU離脱と今回のアメリカのトランプ大統領の出現は、いずれも自国にとっても「予期せぬ結果」であったという声がある。しかもトランプには従来に見られない、激しい反対のデモ行動があったが、考え様ではトランプには、明らかに金融資本主義への偏重の批判と、見捨ててきた社会構造として空洞となった「ものつくり(工)」への回帰、力を労する者(労働者)の視点があることを感じます。資本主義の「ものつくり」は本質的に「労働コスト・賃金」の安い地域に流されていく宿命があり、アメリカは「ものつくり(力を労する労働)」を軽視して商・交易(輸入)で利し、金融と情報の「知の分野」で世界を席巻してきたが、その結果、社会の富(貧富)の格差が拡大した「社会の歪み」の現われとも思われます。

 一般的に事業経営の心には、流通(販売)と製造(技術)の二面がありますが、梅岩の心には、商(流通)の心と ものつくり(工・製造)の心を厳しく分別し、ものつくりの工・職人(勿論、農民にも)に対する明確な敬意と、商(流通)に対する厳しい使命感があります。日本には維新以後も「梅岩の心」が文化の底流にあった故に、結果として(西洋先進国でも珍しい)社会の富の格差が小さい「近代社会」を構築出来たとも言えると思います。日本は西洋先進国と異なり、食文化に於いても全てに「ものつくり」への拘りと士農工商の「四民の心」の調和で「中流」の層の厚い社会を達成しましたが、しかし現代の日本の経営者・政治家は(自分がお金持ちになることばかり考えて)アメリカ的資本主義を安易に受容している故、日本も貧富の格差が拡大しつつあり、いずれ西洋先進国と同じ様相を招くことになる、と思われます。

 梅岩の心には、日本の伝統と言われる武士道にもない「経済倫理観」があり、当世風の言葉で言えば、マインドフルに社会のハピネスを追求する「商・事業経営の心」や広く「国家経営の心」「家庭経営の心」など「共同体全体と個人の好ましい関係」を示唆する視点があります。それを皆さんに理解して頂けるよう心掛けたいと思います。皆様お気軽に例会・「会輔」を覗いてみてください。

 社会のリーダーの世代交代が進んでいるせいか、精神性・使命感の感じられない、リーダーが多いように感じられる。国防・外交も勿論大事だが、国民からの税金はきっちり取ることに知恵を絞り、やりくりばかりで、自分自身の報酬・経費を正しく効率良く遣う、“身を削る”意識が見られない。企業経営者も「儲け方」に品性がなく「ブラック企業」と言われても、背に腹はかえられぬと平然としている人が多い。

 築地市場の問題は我々民間の仕事の手順からすれば、基本的におかしいし、また富山市会議員の経費の使い方などは、既に国会議員も都議会議員も同様だと思っているから驚かないが、他の自治体にも蔓延する日本の政治社会の「悪しき慣習・文化」と言える。このお金の使い方は、江戸時代の悪代官や、暴虐無道の商家の主人のイメージではないか。会計検査院や地検特捜部は、新しい使命感で仕事すべきではないか。国税庁が国民に細部までチェックするように。

 内村鑑三は「代表的日本人」のドイツ語版の中で、武士道は「金銭に対する執着は諸悪の根源である」と世界に向かって述べて批判しているが、現代社会の指導者層が皆、そうであっても「正直・倹約」を徳として日夜勤める我々庶民は「忍の一字」でならなければ生きている価値がない。当舎は、皆さんとともに学びつつ次代を背負う人のお役に立ちたいと願っています。

 昨今の社会情況を見て、日本には長い間、患っている病気「宿痾」がある様に思われてならない、それは封建社会の江戸時代から明治維新を経て、今日まで日本の権力者・政官には、庶民を軽んじてきた「傲慢の病」に罹っているのではないか、ということです。

 一つは「滅私奉公」という言葉の意味である。過去の権力者(政治・官僚)が庶民の徳として、伝統の精神を歪めて用いてきたと思われるが、「滅私奉公」とは本来、社会全体の調和に「心を労する」上なる者、政官の使命を表す言葉であり、下なる庶民は、社会の部分の責任を担って、夫々が誠実に「力を労する」のが使命で、政治に携わる階級は皆、忘れているのではないだろうか。

 もう一つは、権力者・政官に「経済倫理観・道徳心」が全く欠如していることは、国の政治家や東京都の状況から明らかではないか。内村鑑三は著書「代表的な日本人」のドイツ語版で、日本の武士道の定めは「金銭に執着することを諸悪の根源である」であった、と述べていが、明治維新後の若い志士たちはよく考えもせず踏襲し、当時「近代化」の指導に雇用した多くの「西洋人」の給料のレベルに合わせて、自らも高給を食んで、庶民からの「税金の収奪」ばかりに知恵を絞って、自ら国税の節約・効率的使用・適正コストなどに無関心で、今日まできている。民間企業なら何度も自主的な「賃金カット」で急場を乗り越えてきているが、日本の政官は封建時代の御用商人と連んだ「悪代官」の様に見えますが、皆さん如何でしょうか。

 事前の申込みも不要、無料です、お気が向きましたら是非、お運び下されたく。

 リオ五輪も終わり、過ぎ行く夏、秋近しを感じる空気となりました。私は今夏、今すぐ、如何に「儲けるか」という知恵である「西洋経営術」を学ばれる方が多い中で、梅岩の心に通じている「老舗の経営道」を学ばれる方々に、お話する有意義な一時を持つことが出来ました。今、世界的に、永き「西洋資本主義」の歴史の反省期に入っていますが、日本には「武士道」という立派な人の道もありましたが、残念ながら、金銭に執着することを忌み嫌った「武士道」には確固たる「経済倫理道徳」が欠如しておりました。石田梅岩の「商人道」がその「武士道」を補い、全国の「庶民」に武士道に匹敵する「人の道」と「経済倫理道徳」を教え、今日の日本文化の基盤を形成してきたと確信しております。

 「西洋経営術」を学ぶことも当然必要ですが、梅岩は「真の商人は、先も立ち、我も立つことを思う」と「利他」と共に「自らも生きる」を願うことも大事だ、日本の神儒仏の本質である「双方に宜し」が道である、と説きました。これから世界に進出される方々も、日本の「伝統的思想」を学び、世界へ出て日本文化の持ち味である「おもてなしの心」の真髄を自らの行動で、広めて頂きたいと願っております。

 次回の例会は、9月13日です。事前申込みも不要です、お気が向いたら遠慮なくお越しください。お待ち申し上げます。

 産経新聞に、麻生副総理兼財務大臣が、自分の選挙区を遠く離れた北海道・小樽市で「90歳にもなって老後を心配と訳の分からぬことを言っている人がテレビに出ているのを見たが、いつまで生きているのだ、という思いでテレビを見ていた」と述べたという。私はこれを聞いて率直に言って「此の様な日本の伝統の心から逸脱した人が日本の政治のリーダーであることは許せない、自分の選挙区・福岡であったら、また自分の両親に向かっても、よもやこんなことは言わない」と思うのですが、皆さんはどう思われますか。

 梅岩の商人道(人間集団の商家経営)では「商家の主人と支える妻は、丁稚・手代・番頭は皆、自分の家族と同様と考え、それは儒教の“臣は我が四躰、民は我が子とみる”から出ている、共同体の経営は、小は家の経営から、大は国の経営まで(人間的である点で)同じと考える」ところにあります。戦後の教育行政の改革も待っておれない故、18歳まで選挙権年齢を下げるのは、彼らの自覚を促すことを期待できるが、非人間性のリーダーは信用出来ない。

 皆さん、「政治」に関心を持って自分が信頼できると思う人を、選ぼうではありませんか。

 世の中には様々な価値観の人がいるが、共同体として、平和に仲良く暮らすには、中心となる“共有できる価値観”が必要である。しかし私は近年、日本社会全体の空気が“澱んできた”との思いと同時に、“虚しさ”を覚えている。社会の不祥事は絶えることがないが、最近の東大のエリート学生が集団で女性暴行をしても(政府の要職にいるひとの親族がいたからと言って)不起訴になりそうだとか、都知事が公私混同して国民感情から 明確に批判されているのに(本人は悪びれる気配もなく、国民として弾劾もできず)第三者に正邪の判定をさせるとか、一寸前には大臣が口利きして、(多分悪徳の)業者が認めているのに不起訴になったとか、我々が教育を受けてきた国民の「道徳倫理観」との乖離は大きい(親族殺人や自殺者の数も減らない、働き易い労働環境整備も進まない、政治家や社会のリーダーに使命感・倫理感がなくなれば 国は乱れるに決まっている)。

 国民の税の徴収にも“公平性”がなく、政治家や公共の役職の人達の自らの“正しい”経費の使い方(税金の使い方)の管理に(政治家としても、政治組織としても)自浄機能は全く働いていない。江戸時代の(罪悪感もない)商家のドラ息子か、(悪いことを承知で抜け道を考える)悪智慧に長けた悪徳商人の姿が目に重なる。明治維新以後に活躍した伊藤博文、井上馨、山縣有朋等なども世間では女たらし、貪欲の人などと公然の如くの陰口を叩かれていても、立派な政治家の名を残したかのようである。また私個人としては太平洋戦争・敗戦に至った行政府・政治自らの、国民に対する総括・自己反省の論議もなしに、また海外へ向かって安易に“自衛”の道に国民を導こうとしているとの“危うさ”の思いがある。(梅岩の「真の商人は 先も立ち、我も立つことを思うなり」で、自分で自分守ることの大事はよく判っているが)日本の為政者の使命感と責任感の薄きことは 何か歴史の古層にへばりつく、(民を軽視する)悪しき伝統があるのかもしれない、日本には世界に冠たる“理想の思想”があるのに…現実と理想の乖離はこんなものなのでしょうか…。

 先日「テレビ」で引っ張りだこの、若手経済コメンテーターの「学歴詐称」が話題になり、山口、福岡出身の政治家の学歴も云々されている。是を聞いて思いますに、歴史的に日本は外国留学というより、駆け足での「海外視察」の薩長の若手たちが、京都御所の革新派公家と結託して(土肥の人材を捨てて)維新を成し遂げたとも言え、そして直ぐ「近代化」の人材養成で「東大」を設立し、高給の外国人の教師や、政治顧問の力を借りて「近代化」に邁進した。

 それはそれで良かったが、其の後日本の政治経済のリーダーの「東大」の学歴絶対化が進み、同時に「東大」の知性を抑えるには「海外留学」の経歴が重視される様になって、今日に至っている。 其の裏には維新以後の、薩長閥の人脈コネに依る権力構造が構築され、太平洋戦争の敗戦まで進んだ。日本には夫々の世界に、石田梅岩や二宮尊徳、松下幸之助等々「全く学歴もない」立派な人は多いのに、昨今の国会議員のだらしない姿や、経済界リーダーの行動を見ると、日本は真に使命感のある人材を広く求め登用していないのではないか、と感じる。其の国会議員を選ぶのは 我々国民である、信念確立の為に人の道の「根本」を学ぼうではありませんか。

 政治世界も 今や井原西鶴の描いた「色とカネとの二人連れ」の世界を超える「衆愚政治」に堕落した感がある。石田梅岩は“上に立つ人が 下より礼銀・賄賂を受けていては 政道は立たない。其れは盗人と言いう者で 上の正しい政道を受けて 政治の実務を担う武士とは言えない”と。大臣も代議士の諸兄諸姉もご自分の「使命」を自覚されていない。政治家になる資格は先ず“使命感ありき”であるのに 勉強しようともしないし、先輩代議士も勉強させようともしない。企業なら社員の不実・不正は社長の責任であるのに 代議士は数人の秘書すら教育も監督もしない特殊な世界らしい。

 また政治は外交・貿易ばかりでないのに 庶民の日常生活の道徳、心の不安や乱れに 自分の言葉で発言される政治家も見られないのも 大いに不満である。福祉の現場で虐待や殺人があり、子供の虐待、親殺し、中小企業の労働者の賃金は上がらない、にもかかわらず議員定数の削減もせず、公務員の給料を上げようとし、税金を収奪しやすいように策を弄する、そして“色とカネ集め”ではやり切れない。

 残念ながら現政治家の多くの方が 日本伝統の「民は邦の本である」という意味を忘れ、ないしは「民を舐め切っている」としか思われない。我々国民も任せきりにせず 政治に“もの申す”行動、真の政治家を選ぶ決意が必要である。其の為に「道の根本」を学ぼうではありませんか。

 今に始まったことではありませんが 某大臣が「怪しげな献金」を受領して問題となっています。梅岩は「都鄙問答」にて「何事も清潔の鏡は 武士を法(基準)とすべし。上,仁なれば 下,義ならざることなし」と述べ、(鎌倉時代)幕府の青砥左衛門と言う役人が裁判で…被告である権力者、執権・北条時頼の近侍の者の「非道」を訴えましたが 皆が後を恐れて判断しかねているところを明快に裁決し、勝訴した訴人の者から「謝礼金」を持ってきたが 青砥左衛門は、北条時頼殿から信頼され委嘱された自分の務めを果たしたまで、と突き返した…とあちます。

 過去に「刑務所の塀の上を歩く」が如き危うき政治家と称される人もいた様ですが、今や物欲しそうにしない、清廉な倫理観の政治家はいなくなったのでしょうか。日本伝統の清廉な倫理観の社会を目指すべく、社会のリーダーも一考して欲しいものです。日本には「儒」から学んだ…上は「(下々の為に)心を労する者」で 下から養われる、下々は上から支配されて夫々の「力を労すること」を生業とし上を養う…と言う垂直の平等関係の伝統がありました。 上が堕落しても 私たち国民・下が 政治経済社会に影響力・牽制力を発揮できるよう一層、学ぶ必要がありそうです。如何でしょうか。

  明けましておめでとうございます。心学修正舎も1729年梅岩が京・車屋町御池上ルの地で「講席」を開いてから 昭和30年代からの一時休眠の時期を経て「会輔」を再開してから7年目、通算「287年目の春」を迎えることが出来、話者として一言ご挨拶申し上げます。

 年初の思いの一つは…今年は“申年”ですが 日本もグローバルな世界に立たされた「第二の維新」とも言うべき今、過去の日本の文化的一面である…消極的な“見ざる、聞かざる、言わざる”の従来の「三猿」から 「深く見る知恵を身に付け」「正しく聞き分ける知恵を養い」、身に付けた道に従った信念を 社会に堂々と「自己主張する」“積極的な新しい姿”への変身が必要だと思う次第です。此の「三猿」は幕府の巧妙な庶民啓蒙の策略であり、明治維新以後もそれを継承したもので 今その歴史の古層から脱出する「自覚」が国民に必要であると思います。その為に確りと国民一人一人が「本」である道理・伝統の精神を改めて訪ねる(温故)ことが重要ではないか…と思います。外国人は互いに意見が違うことは“当然”として争いますが 自分の国・民族の歴史・精神に確信を持たぬ、しかも争いを好まぬ日本は益々“軽蔑”されることになります。外国の「日本人の精神」に期待する声に応えるべきである、と思う次第です。

 もう一つは新年、友人からの話ですが…中国に近い「宮古島」に移住した人の話として、國の施策として、宮古島にも中国から沢山の観光客が来る様になった、しかし宮古島の商店は皆小さく、人手も少ない故 商品を買う人より ドサクサに紛れて「万引き」する人が多く取り締まれず、観光客が帰った後 商品を盗まれているという被害が多く、とても商売が成り立たないので、中国人観光客が来ると店を閉める、と言うのです。富士五湖周辺でも 小さな湧水池に小銭を投げ入れる観光客が絶えず、池浚いに苦労している話もある。政治経済のリーダーは「儲ける」視点だけで動き、観光客を呼ぶが「良いお客様」を択ぶ工夫と見識を発揮してもらいたいものです。

 梅岩の心には此れ等の…「積極的な心」と「良いお客様を択ぶ心」が潜んでいます。今年も皆様と共に、生きた学問をしたいと願っております。 今年が日本や世界にとって穏やかな調和の中で、皆様とご家族にとって 幸せな年となる様お祈りします。

 日本には江戸時代以来の「商人道(事業経営の心)」に…京都に生まれた石田梅岩の「正直」を重んずる道と 商都大阪の風土に培われた「才覚」を重んずる道の「二つの道」があります。正直は人に具わる良心(道心・誠)に従うことを重視する道、才覚は人の心の働き(人心・自我)を重視する道で 才覚の道の究極を 現代の「西洋近代資本主義」の人智を重視する「グリード(貪欲)」の道と言えると思います。 先日「フォルクスワーゲン社の不正」が世界に轟きましたが 日本の伝統的な商人道に志す皆様に取っては 正しく「正直」「才覚」を超えた「詐る、偽る、欺く」、全く“道に外れた”企業行動であると言えましょう。 日本でも昨今は 利潤追求一筋で「ブラック企業」と評されても全く意に介さぬ、西洋資本主義の経営術(術であって道ではない)に盲従する経営者が多いようです。

 西洋資本主義社会の文化思想は「信仰は信仰、ビジネスはビジネス」と信仰心とビジネスの心は切り離されており、「信仰(道徳)とビジネスの心」は「知行一貫」と考える日本の伝統とは大きな違いが隠されています。日本人たる私達は「才覚」も「グリード(貪欲)」に至らない「中(中庸)」に自制する「正直」の道で生活したいものです。しかし「正直」の実践は簡単の様に見えますが 人の心は移ろい易く、世は諸行無常で何事も自分の思う様には進まないものですから 実践は難しく、奥が深い所があります。「自制心」を養う為にご来舎をお待ちしております。

 最近「国政」についての不満が益々募ります。個人的には柔軟な伝統保守主義者ですが腹立たしいことばかりです。マイナンバー制と「消費税10%」への増税が予定され、併せて国民の負担を軽減する為の検討もされているが、増税2%分の還元について、政府の手続き簡略化の為に 一端取り立てておいて国民の「自己申告」に基づいて払い戻しする、(高齢者社会だから申告を忘れる人も多いだろうが 更に平行して)上限は4000円を歯止めとする(税収増の見通しも立て易い)、と言うことになるらしい。なんと江戸時代の悪代官まがいの“民の心を傷める”こんな「政・官」を信頼出来ますか。

 日本の伝統精神では…民の生活に“心を労する”“民を吾が子”と思うのが“為政者(政治家・官僚)”の使命であるのに 民に心を労す気配が政・官に見えない。オリンピック関連で「巨額の税金」の無駄使いをして「自らの過ち」を反省する気持ちもなく、誰も責任も取ろうとする人もいない、安保も国民を守る為であると うそぶいている。政治を支える優秀な人材が集まっている筈の「官僚」陣も含めて 正に民から“収奪する”ことしか念頭にない「政・官」ばかりである。民間のビジネスの世界も経営者の報酬はアメリカ並みに うなぎ上りだが 責任を取らされる下位職は給料も上がらず、お客様からは“詐欺まがい”として見離されるのに、そういう政治家を“首に出来ない”とは 真に情けない。国民の心を解っている筈の政治家たちも頼りに出来ないとしたら 国民に明るい将来は見出せない。何とかしなければならないと思われませんか。

 結局は国民が結束して確りした「信念」で 政治家を峻別するしか道はない,其の為には国民一人一人が「見識」を高める必要があります。メデイアやシンクタンクも一歩踏み込んで、政治家を半分にするとか、官僚の東大一辺倒を打破する等 問題提起し糾弾する気概を持って欲しい。しかし他人頼みばかりでなく、地域利権や自利に拘らぬ我々「国民の見識」で「政治家の意識」を変えるしか 道はない様です。皆さんと共に研鑽・修身に励みましょう、皆様のご来席をお待ち致します。

 オリンピック・エンブレムの白紙撤回の「武藤」事務総長の会見で「一般国民の理解が得られず…」との表現があったが 日本のリーダーの言葉として実に「傲慢不遜」な侮蔑する言葉遣いで 日本の近未来に不安を覚える。オリンピック関連では波乱続きだが、同時に最高責任者の大会組織委員長・森元首相の姿も テレビの画面でよく見るが、その言動の姿・風情にはいつも「失望」させられる。日本の政治家や官僚は自分たちを「何様だ」と思っているのだろうか。物質的・科学的近代化のみを急いだ、明治維新以降の「官尊民卑」の悪しき伝統であり、政官・権力者の精神の「近代化」がされていないことの証しであろう。昭和天皇や今上天皇の国民に対する思いを推し量ると 真に情けない権力者の姿である。我々国民も 権力者に安易に従順・依存する心から脱却し「近代化」を図らねばならないと痛切に感じる。

 昔、9世紀初め中唐に生きた「柳宗元」は 政争に巻き込まれ不遇な官僚の道を送ったが、一方で名文章家の名を残した。我が地方に赴任する 友人の役人を送別する言葉がある。…「官吏としての俸給を貰いながら 官吏としての任務・責任を怠るものが多い。また怠けるだけでなく(税金から)盗む者さえもいる。それなのに何故、民は怒り止めさせ罰することが出来ないのか。それは権力が同じでないからである。しかし権力は同じでなくとも 道理は同じである筈である。官吏を正すしか道はない。君は正しき官吏たるべく実践して来られたのだから、頑張って欲しい 」と激励した、それに友人の官吏は応えて…「しかし私は未だ卑しい身分の官吏ですから 官吏全員を評価する会議には残念ながら 参加出来ません」…と言う様な会話があります。

 今も昔も変わらない様ですが 歪んだ政官を正すのは 国民の力を結集するしかなく、それには我々国民一人一人の意識を新たに「近代化」する為に 道を学び深めることが大事ではないでしょうか。

 蝉の声を聞くと何故か,太平洋戦争終戦の8月を思い出します。廣島の被爆の日も暑い日でしたが今、政治情勢も暑い戦いの中にありますが、善意に解釈すれば、自衛の為に一歩,積極的に世界へ踏み出さねばならぬ、と主張しているとも言えるかもしれません。また同じ様に経済(企業活動)も、西洋資本主義経営は 本質的に労働賃金の安い国に“流れていく”宿命にありますから、本質的に、新たな知恵とグローバルな視点への転換期(維新)にあるとも思います。歴史を振り返ってみますと、私は日本は一貫して「内弁慶」であった、様にも思われる今、日本伝統の「温故・知新」の言葉を噛み締めています。物質的資源の乏しい小さな島国として、心は伝統の「広大無辺な心」で、世界に視点を移す時にあると思うのです。

 「温故」とは日本伝統の心への回帰、「知新」とは西洋文化の狩猟・商業民族的性向としての「近代資本主義の心」の固有の本質を学ぶこと(明治維新以来 普遍的な知識と行政システムしか学んでいない)、そして世界に「日本人の心」を世界に伝えるには,社会のリーダーは矢張り「英語・会話力」が必要だ、と考えます。

 過去、鈴木大拙、岡倉天心、内村鑑三、新渡戸稲造、新島襄らが、世界に日本伝統の心・文化を「英語で」伝えようとした努力に、学ぶ必要があると思います。夫れを生かすのは現代の我々の仕事だと思います。S・ハンチントンも…日本は東洋の儒教・佛教を学んだが,中国・インドとも違う,叉西洋の文化も学び近代化したが、西洋とも違う、日本は世界で孤立しているようだ…と述べています。

 その日本の固有の独特の文化を,世界に理解して貰うには「英語」表現力を軽視出来ないと思います。英語力を身に着けると言うことは当然,西洋文化の本質を知ることであり、英語力も日本の固有の文化の「本質」を理解出来ねば、無意味となりましょう。その様な意識で、密かに勉強されていた「リーダー」たる人材は どこに居られるのでしょうか。

人間は皆、何らかの共同体、即ち国家・企業等の集団に属しつつ、生活している。先日に日本を代表する企業「東芝」の歴代の経営トップ3人と中心役員の殆どが辞職した。確かに事態は社会的にも基本的に誤った作為・お粗末な判断であり、著名な企業として恥ずべき事態と言える。是を見て改めて政府・官僚組織の“トップの責任の取り方について”思うことがある。

 先日“新国立競技場”の白紙還元があったが 問題が露見するや、物事の決め方、進め方、予算の立て方,遣い方も不明瞭で、其の前にも国の社会保険の“国民個人情報の漏洩問題”もあったが、保護対応策に予期せぬ多額の税金を遣っても、メデイアの追求も“うやむや”となり謝罪も曖昧で責任を取る気配もないのはどうしてだろうか。更に国会議員やメデイアは 責任の所在を明確にすべき、と批判はしているが、話は飛ぶが、太平洋戦争・敗戦に至った「反省と責任」に関する追求、国民議論が“あいまい”となっていることに思いが至る。

 此れ等の一貫する、日本の行政組織の構造的・無責任体制、傲慢な秘密主義の姿を見ると,日本は今、安保法案の一括審議を急ぐことに、また太平洋戦争に向かおうとしている、との懸念を感じるのである。日本の政治思想の底に“何か傲慢な、病気・宿痾”が潜み流れている、とすれば、安保法案の運用権限を今,政府に一任出来ることに 率直に“不安”があると思うのである。梅岩の心の奥には 為政者・経営トップの在り方を厳しく要求する、強い信念がある。

「東芝」さんが 巨額の「不適切会計」処理で揺れている。「努力・工夫」は日本伝統の、日本人好みの心の一つですが、社長さんが「工夫しろ」と事業所に指示していたことが発端だという。石田梅岩や手島堵庵が主張した「正直」「あるがまま」の道に外れ「工夫しろ」という言葉の真意を、社長さんも社員も不幸にして、間違った理解をしたのではないか、と色々考えさせられました。

 事業を営む上での「努力・工夫」の真意は…営業や技術部門に向かっては、お客様や社会に役立ち・ご満足頂く為に「努力・工夫を怠るな、誠を尽くせ」の意であり、梅岩はそれに素直に従うことを「正直」と言い、入るを計って出るを制する立場の管理・経理部門には 経営の実体が「(偽らずに)あるがまま・正直」な姿に表すことを責務とする、それがトップの真の願いである…所にあると私は思うのです。

 「利益」管理の主体が営業にあるのか,事業部にあるのか,工場にあるのか,判らないが、それを社長さんが言った「工夫しろ」を、社員たちは安易に権力者の明確な指示として受け取ったのか、それは「東芝」さんの「社風」の現実の「ありのまま」の姿と言えないこともない。梅岩の心には「正直・倹約」の外に、「不埒な道に外れた」商家の主人に「物を申すべし」という強い心が隠されています。しかし是も「我が身」が当事者として直面した時は一寸悩みますが,其の応対の「知恵」も「梅岩の心」の中にある様に思います。

 私は 混迷を深める世界に於いて日本の伝統の心は“穏やかな世界”の為に貢献出来ると信じる「柔軟な、伝統主義者」だと思っている。しかし、最近の安倍総理大臣と自民党の政権運営に「或る種の不安と大いなる不満」を感じている。概ね泰平の世であった江戸時代が、じわじわと幕末に向かって農民・庶民の生活が衰退して行った姿と、また東アジアへの進出から太平洋戦争の惨めな敗戦の道へと進んだことを思いつつ、世の中は“悪い方に向かっている”との思いがする。

 国会で「諸問題」が討論され、議論も伯仲しつつあるが ,与野党ともにすれ違いの観がする。

①安保関連法案も、憲法改正論議を避けて、(専守防衛とは言え)「切れ目ない」体制の構築を急ぐ姿勢に強者の論理・覇道の危うさを、

②また年金機構の情報管理の不祥事に対しても、野党の不祥事の対応に 予想される“予想外の大きな出費”の追求に 安倍さんはその予期せぬ出費は“税金”で負担するしか道はない(当たり前)と言わんばかりの高姿勢に無責任さと傲慢さを、

③また(大企業寄りの)派遣法案の改正や 医療政策、保育行政など「(多数派の)老人・(少数派の)弱者」に対する視点に無慈悲さを、

④また情報化社会が進んだ為の詐欺行為の多様化や、「殺人」などの社会現象に発言のないことに、無関心さを、

…などを感じている。「論語」に「民の信がなければ 国は立ち行かない」とあるが、為政者たる国会議員や 臣たる官僚のリーダーが“自ら”「国民の信」が得られる様,心を新たに、身を正して、行動で示して貰いたいと願う。国会で(智者・賢者の考えとして)憲法学者の意見を聞いたのに、予想に反して自分達の考えに違えば,一部の意見に過ぎないとして、無視する。為政者も権力だけで政治をせず,国民や賢者を説得するなら、謙虚に“自らの使命感”を勉強して貰いたい。勿論我々国民も 国政(権力)に“盲従”することなく 確りした信念で接する為に,自らを研鑽・革新せねばならないと思う。